2019年07月05日
7月5日生まれ
金城哲夫 (脚本家)
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1938(昭和13)年7月5日、東京で生まれたが、中学までを沖縄で過した。
那覇高校の受験に失敗し、上京して玉川学園高等部、玉川大学文学部教育学科入学・卒業。玉川時代に恩師である上原輝男の影響を受け、脚本に興味を持ち始める。上原より教え子の一人だった円谷皐を介して円谷英二を紹介され、東宝特撮映画で健筆を振るっていた関沢新一から脚本家としての指導を受ける。関沢の薫陶による「ポジティブな娯楽(エンターテインメント)志向」は以後の金城の作風の根幹をなした。1962(昭和37)年、TBSのテレビドラマ「絆」でデビュー。同年、一度帰郷し映画『吉屋チルー物語』を製作。
1963(昭和38)年に円谷プロダクションへ入社、企画文芸部の主任として『ウルトラQ』『ウルトラマン』『快獣ブースカ』『ウルトラセブン』など、黎明期の円谷プロが製作した特撮テレビ映画の企画立案と脚本を手掛ける。自身の脚本執筆だけでなく、他のシナリオライターへの発注や改訂作業を行い、監督のローテーションを組むなど「脚本監修」「シリーズ構成」の役割を担い、『Q』・『マン』・『セブン』の高い完成度に貢献した。オーソドックスながら骨太で力強いドラマ作りを行い、殊に映像化を念頭に置いた躍動感溢れるト書きについては高野宏一や中野稔といった特撮スタッフの多くが「非常に刺激になった」、「映像化への意欲を大いにそそられた」と口を揃えて証言している。また円谷プロ時代の同僚ライターであった上原正三は「金城が物語の本流を決めてくれていたからこそ、自分や実相寺昭雄が安心して変化球を投げることができた」と述懐している。ウルトラシリーズには、チブル星人(沖縄方言で「頭」を意味する)やジラース(沖縄方言で「次郎叔父さん」を意味する)など、沖縄県を想起させるキャラクターが登場させた。
『Q』『マン』の相次ぐ高視聴率により怪獣ブームを巻き起こし順風満帆かと思われたが、大人向けの特撮を目指した1968年製作の『マイティジャック』は、平均視聴率が8.3%と低迷したために1クールで打ち切りとなってしまう。挽回を図った『怪奇大作戦』は、平均視聴率22%と健闘したものの、スポンサーが「ウルトラに比べて低い」という判断を下したために、予定の2クールで終了(しかも金城は7話以降は全く参加していない)。番組の受注が途絶えた円谷プロは、経営状態の悪化に伴い大幅なリストラを敢行し始める。その煽りで文芸部も廃されて以前のような発言力を失った金城は、今後はシナリオライターではなくプロデューサーへ専念するよう迫られたことで1969年に円谷プロを退社する。沖縄県に帰郷しラジオパーソナリティーや沖縄芝居の脚本・演出、沖縄海洋博の構成・演出などで活躍した。
1976(昭和51)年2月23日、泥酔した状態で自宅(すき焼き店「松風苑」の敷地内。現在資料館)2階の仕事場へ直接入ろうとして足を滑らせ転落。直ちに病院に搬送されたが、3日後の2月26日に脳挫傷のため死去。37歳没。
2016(平成28)年、「ウルトラシリーズ」放送開始50年を記念して、自身の名を冠した脚本賞「円谷プロダクションクリエイティブアワード 金城哲夫賞」が創設される。本賞は未来のクリエイターの発掘・育成を目的としている。
(wikipediaより引用)
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Posted by イリー・K at 13:00│Comments(0)
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