2019年07月02日
7月2日生まれ
イメルダ・マルコス (ファーストレディー)
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1929年7月2日、フィリピン マニラ市生まれ。
生活が厳しく、早く亡くした母の形見の装飾品を売って家計の足しにする思春期を過ごし、1938年から1948年の高校卒業まではタクロバンのホーリー・インファント学院で英語を学ぶ。1951年セントポール大学で教育学の学士号を得て卒業し、地元の中国人学校の教員を勤めていた。
1952年、従姉の勧めで従兄の家に同居することになりマニラへ戻り音楽店の歌手として働いていたが父の反対に遭い、1954年までフィリピン中央銀行の秘書として働いていた。また、サント・トーマス大学で声楽を学び、フィリピン女子大学音楽芸術学部の聴講生として勤務の傍らの時間を縫って通っていた。この頃にはミス・コンテストに相次いで出場し、「タクロバンの薔薇」「ミス・レイテ」「ミス・フィリピン」のタイトルを獲得している。この頃の1954年4月、のちにフィリピンの大統領となるフェルディナンド・マルコスと出会い、見初められてフェルディナンドから執拗に迫られ、根負けした結婚契約書にサイン。同年5月1日に結婚した。
1965年12月、大統領選挙で勝利したフェルディナンドの大統領就任に伴い大統領夫人となる。長年にわたり植民地であったフィリピンでは自国の文化が衰退していると考え、マニラ文化センターの創設やリサール公園整備の前任者である前大統領夫人からの引き継ぎ、重水素の開発などに尽力する。1972年12月7日、マニラでの全国美化清掃運動表彰式の最中に刃物を持った暴漢に襲撃され、負傷した両手に75針を縫う手術を受ける。
外交面では1970年代、特命全権大使に任命され、アメリカ、中国、ソ連、リビアなど世界各国を訪問。中国やソ連との国交樹立交渉、モロ民族解放戦線への武器供給停止交渉などの実績がある。
1983年8月31日、マルコス大統領に批判的だったニノイ・アキノが帰国の際にマニラ国際空港で暗殺されると、マルコス大統領は真相解明のため、イメルダを含めた容疑者を調査する大統領令を発令するが、イメルダの関与は認められなかった。しかし、この事件により反マルコス運動によるデモや暴動が活発化し、ニノイの未亡人コラソン・アキノに対する国民の支持が増加することとなった。1986年に発生した「ピープルパワー革命」でマルコス大統領は失脚。マラカニアン宮殿を追われたフェルディナンドとともにハワイ州に亡命する。彼女が退去した後のマラカニアン宮殿には、1060足の靴、15着のミンク・コート、508着のガウン、888個のハンドバッグが残されていた。この様子は、マスメディアによって『イメルダ・コレクション』と取り上げられ、イメルダの浪費癖に対する批判の声が高まった。
1989年12月、フェルディナンドの死去後も政治活動は続け、1991年11月4日にフィリピン政府からの許可を受けて帰国。1992年大統領選に出馬するも落選。1998年にも再度出馬するが、中途で撤退している。1995年にはレイテ島から下院議員に立候補して当選し、国政に復帰した。2009年12月にも再び下院議員に立候補し、2010年5月の選挙で当選を果たしている。
(wikipediaより引用)
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Posted by イリー・K at 20:05│Comments(0)
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