5月2日生まれ
下川 凹天 (漫画家)
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1892(明治25)年5月2日、沖縄県宮古島生まれ。
小学校へ務めていた父が在職中に死去し、母の実家のある鹿児島県へ移転。1900(明治33)年、東京在住の伯父(父の弟)である陸軍軍人石橋正人に引き取られる形で上京。
1906(明治39)年3月、旧制・麹町小学校を卒業後、雑誌『東京パック』の漫画家養成の広告を見て北澤楽天に入門、書生として楽天のもとで生活する。この時に「凹天」の号を与えられる。1907(明治40)年4月、楽天の勧めで旧制・青山学院に入学するも、1年で落第・退学となる。そのことを理由に楽天に破門されるも、漫画家への夢は捨てきれず、陸軍省陸地測量部で働きながら独学で漫画を勉強した。
1912(明治45)年、師であった楽天が『東京パック』を離れ、『楽天パック』を刊行すると、「今の凹天は旧事の凹天ではありません」という主旨の手紙を送る。この手紙を読んだ楽天は喜んで凹天を迎え入れたという。楽天パック社の社員となり、同誌に執筆を開始。プロ漫画家としての生活がスタートする。1916(大正5)年、処女出版となる『ポンチ肖像』を発表。岡本一平・幸内純一から序文、北澤楽天をはじめとする当時活躍していた25人の漫画家から序画が寄せられた。
1916(大正5)年、天然色活動写真株式会社(天活)からアニメーション製作の人材を紹介してほしいという話が楽天パック社に持ち込まれ、両者の話し合いの結果、凹天が推薦され、その仕事を引き受ける。資料が少ない中、凹天はアニメーションの研究を行う。同時期、小林商会で幸内純一が、日活で北山清太郎が独自にアニメーション制作を開始。1917(大正6)年1月、凹天が手がけた短篇アニメーション映画『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』が公開された。公開順では国産アニメーション映画の第1号となったが、他の2人との差は数カ月程度で、それぞれ同時期に独自の方法で製作に着手しているため、3人ともアニメーションの創始者として扱われている。
3作目の『茶目坊新画帳 蚤夫婦仕返しの巻』制作時、絵の撮影に使った電球の光がもとで眼病を患い、1年半入院。天活を辞めることになり、以後アニメーション制作に関わることはなかった。
その後1918(大正7)年から『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』『東京日日新聞』などに似顔漫画の寄稿を皮切りに、東京や大阪の新聞媒体を中心に漫画作品を提供。新聞漫画家として広く名が知れ渡るようになった。
1951(昭和26)年に引退を表明。この頃より、仏画の研究に没頭したという。
1973(昭和48)年5月26日、81歳で死去。
凹天はペンネームで、本名は下川 貞矩(しもかわ さだのり)。
(wikipediaより引用)
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<その他の著名人>
徳川 秀忠 ※江戸幕府 第2代将軍【武将、政治家】
樋口 一葉【作家】
マンフレート・フォン・リヒトホーフェン【軍人】
サタジット・レイ【映画監督】
久慈 あさみ【女優】
なべ おさみ【俳優】
鮎川 誠 《シーナ&ロケッツ》【ミュージシャン】
夏木 マリ【女優】
秋元 康【放送作家、作詞家】
スティーブン・ダルドリー【映画監督】
ヤン・クーネン【映画監督】
笛吹 雅子【日本テレビアナウンサー】
デビッド=ベッカム【サッカー】
上重 聡【日本テレビアナウンサー】
斉藤 舞子【フジテレビアナウンサー】
お誕生日おめでとうございます。
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